元アシスタント座談会我らが青春のちばあきお
江田二三夫・島田賢司・多賀慎治・あいきさだむ・高橋広・なかいま強
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連載開始当時は編集者もべた塗り
完成原稿にも細かな手直し
食べものにもこだわりが!?
頼まれると断れない人だった
大胆で繊細なペンタッチ
大好きだった志ん生の落語
漫画家ちばあきお誕生の時期は!?
ちばあきお作品のキャラクターの魅力
連載開始当時は編集者もべた塗り――まず、皆さんのちばあきお先生との出会いの頃の話から聞かせていただけませんか。
江田 ここにいる6人の中では、私がいちばん古いと思うんですが、作品的には『キャプテン』の初期の頃からでしたね。 それ以前からもあきおさんとは野球では何回か会っていたんですが、仕事でのつながりはなかったんです。 そしたらある日あきおさんから電話がかかってきましてね。私の兄貴も漫画の仕事をしていましたから、 てっきり兄貴の方に用があるのかなと思ったら、私に手伝ってくれということだったんです。 島田 私は江田さんのあとですね。たしか連載が増ページになって、どうしても手が足らなくなって手伝いをするようになったんだと記憶しています。 当時、担当の編集者さんがベタ塗りをしていたのを覚えてますよ(笑)。 多賀 私は『キャプテン』の連載が1年経った頃だと思うんですが、昭和47年の年末に江田さんに連れていかれたのが最初です。 翌年の春から週刊誌連載も始まるということで、ほとんど経験のない私にも声がかかったということなんです。 背景も満足に描けませんでしたから、ベタとか描き文字ぐらいしか使いようがないという感じでしたね。 まあ、難民救済というところでしょうか(笑)。 私は最初アニメの方の仕事をしていたんですが、やはり自分の作品を描きたいなという気持ちが強くなって、 漫画の世界に行こうかなと思い始めていた時に、ちょうど江田さんと知り合いまして、 それで先生の所へ連れていかれたということなんです。 あいき 私が翌年の昭和48年の4月頃でしたでしょうか。 週刊少年ジャンプの『プレイボール』がスタートする時期でした。 集英社の方と知り合いになって、その紹介という形でしたね。 入ってすぐに背景とかを描かされたのを覚えています。 高橋 私は昭和50年頃でしたね。19歳でした。当時、印刷会社に就職していましてね。 職場の先輩にちばてつや先生のアシスタントの友達というのがいまして、てつや先生とあきおさんの両方でアシスタントを探しているというんですよ。 で、その先輩がてつや先生の方に行き、私があきおさんの方に行ったわけです。 入った当時は、背が高くて、なんだか頼りなさそうでダメなんじゃないかという批判の声もあった(笑)。 なかいま 私は一度、アシスタント上採用になっている(笑)。上京したのは19歳の時で、昭和55年だったかな。 漫画家になろうと思って家出してきたんです。 金がないので、友達の家にころがり込んでね。 その時に、雑誌を読んでいたらちばプロの漫画家募集が載っていた。 それで、生まれて初めてペンとペン軸、それに墨汁を買ってきて、風景かなにかを描いて送ったわけですよ。 そしたら、上採用の通知が来てね(笑)。 それから何だかんだあって親に就職させられて、2年ぐらい勤めましたかね。 簡単に漫画家になれると思っていたのに、それが挫折ですから、その2年間は銀座で飲みまくっていましたね。 島田 よく金があったね。 なかいま 結構給料がよくて、一人者でしたからね。 とにかく、この時期は漫画なんて描くヒマがなかったなあ(笑)。 これじゃダメだと思って、22歳の時に会社を辞めましたけどね。 ともかく、それまでに漫画らしきものを描いたのは、上採用になったペチャペチャと描いたやつだけなんですよ。 江田 野球の試合で何回か会ったけど、あれはそのあとなの。 なかいま そうです。 とりあえず、会社を辞めてまた友達の家の近くにアパートを借りたんですが、これはまったくの偶然なんだけど、 その友達というのが、あきおさんの奥さんの知り合いという女の子と同棲をはじめたんですよ。 で、そこへ遊びに行ったら、本気で漫画家になるつもりがあるんなら、奥さんに話をして、あきおさんに見てもらえるようにしてあげるよということになったんです。 それで50枚ぐらいだったかな、とりあえず仕上げて、それを持ってあきおさんの家に行ったんです。 江田 その時に、何て言われたの。 なかいま それが何を言われたか。全然覚えてない(笑)。もう舞い上がっちゃってましたからね。 覚えているのは、天ぷらソバをご馳走になったことかな(笑)。 それで、あきおさんからは、今アシスタントはいっぱいなので、君を雇えないということは言われましたね。 高橋 それは、いつ頃のことなの。 なかいま たしか『ふしぎトーボくん』の頃だったかな。 その時に僕が高校の時に野球をやっていたという話になって、そしたらホワイターズというチームがあるから、 野球の時には呼んであげるよということになったんですよ。 島田 漫画の助っ人じゃなくて、野球の助っ人になったわけだ(笑)。 なかいま その野球の試合の時に、てつやさんとか江田さんにも会ったわけですよ。 高橋 あきおさんに見てもらった50枚の原稿はどうしたの。 なかいま 何とかしようと思って月刊少年ジャンプに電話して、持ち込んだんです。 その時に見てくれたのが吉倉さん(現月刊少年ジャンプ副編集長)で、これは新人漫画賞の候補作に入れておくよということになった。 その時にアシスタントの口はありませんかとお願いして、みやたけしさんのところを紹介されたんです。 そうだ、みやさんのところへ行く前にあきおさんのところへ手伝いに行ったことがあったなあ。 野球の助っ人のあとで、あきおさんから電話もらって『トーボくん』の仕事が忙しいので、 よかったら来てくれないかということで、1回だけ行ったことがありますよ。 机がなくて、チャブ台みたいなところで仕事をしたなあ(笑)。 江田 どんな手伝いをしたの。 なかいま トーボくんが犬をつれていたでしょ。 真っ黒いブルドックだったかな。 それを一生懸命塗ってましたよ。 ストーリーなんか全然分からなくてね。 そしたら島田さんが、僕のベタ塗りした原稿持ってきて、こんなにムラがあっちゃダメだよ、印刷されて汚かったら君のせいだからねと言われて(笑)。 島田 そんなことは言ってないよ。 なかいま いや、絶対に言いましたよ(笑)。 江田 島田君はあきおさんに色々と言われた方だから、それを今度はなかいま君に言ったんだろうな。 結構細かいことを言うこともあったからね。
完成原稿にも細かな手直し
――ちばさんの仕事振りとか、あるいは教わったこととかで、何か記憶に残っているようなものはありますか。
島田 あきおさんが細かいことを色々と教えてくれたのは、最初の方にはありましたけどね。 多賀君とかあいき君が来た頃までは、細かいことを言ってくれたような記憶があるね。 あとは仕事が忙しくなって、そんなに細かいことは言わなくなった感じでしたね。 江田 『キャプテン』の最初の頃だったかな、背景の一部分を、これ取っちゃおうかなとか人物の影のベタが多すぎるから、これも取っちゃおうかとか、 色々と細かく始まるわけですよ。 そうすると詰めていた編集の人が、そんなのどうだったいいじゃないって、よくモメてましたね(笑)。 島田 そのベタにホワイトをかけて、そこにまた斜線を引いたりとかは、ずいぶんありましたよね。 多賀 最初の頃は、とくに多かったですよね。『キャプテン』1本の頃は、まだ時間もあったし、細かな手直しはしょっちゅうだったですよね。 あいき 『プレイボール』が始まってからは、時間もムチャクチャになりましたらね。 あまり細かいことは時間的にも言えなくなったんだと思いますよ。 島田 そうね。『プレイボール』が始まってからは、ある程度江田さんにまかせるところはまかすという形になったんじゃないですかね。 仕上げなんかもね。 江田 最初はあきおさんも、自分で最後まで見てたんだけども、だんだんそれができなくなってからは、 とりあえず全員に見せて、それでミスがなかったらOKということになったんだね。 高橋 原稿に見たというマークを付けてね。 あいき そうだったね。それで先生がゴルフで一汗かいて帰ってきて、完成という感じでしたね。 島田 一汗かいて帰ってくるという頃は、まだよかったんじゃないかな。 忙しくなってゴルフで一汗かけなくなってからは…。 あいき ちょっと辛そうな感じでしたよね。 多賀 連載でカラーや2色原稿が入った時など、先生は部屋にカン詰めになって描いていましたね。 我々はカン詰めになる前に先生に指示された原稿にかかっていて、それが上がって帰ろうという時になって、 カラー原稿を仕上げて先生が出てくるということがありましたよね。
多賀 何といっても、ギリギリまで粘ってより完成度の高い作品にしようという姿勢が強く印象に残ってますね。 すごいなあという感じでした。 島田 そうね。 やはり表現のキメ細かさと、完成原稿になってからも、渡すまでのこだわりというか、 完成度のチェック、これはすごいなあと思いましたよ。 それと、すでに印刷されたあとでも、掘り出し(見本刷り)を赤で直したり チェックしたりしてるんですね。 漫画家というのはそこまでするのかなあと思いましたね。 僕らは全然知りませんでしたからね。 そういうこだわりというのは…。 あいき 人物の目線なんかにも、かなりこだわってましたね。 たとえば、観客ひとりひとりの目線にまで、細かく気を配る。 こっちはつい遊んじゃったりするんですが。 島田 遊ぶというのは…。 あいき バックの観客なんかは、自分の描きやすいように 描いてしまったりするんですよ。 目立たないように自分ではやっているつもりなんですが、 それはよく描き直しさせられましたね。 多賀 描き直しもずいぶんやらされましたが、そのぶん教わることも多かったですね。 私の場合は、とくに素人同然で始めたわけですから、 先生も大変だったと思いますよ。 高橋 僕はあんまり教えてもらってない。 島田君の所へ手伝いに言った時の方が、よっぽど教えてもらったな(笑)。 島田 高橋君はあとの方で入ってきたから、 教えてくれるのは先生ではなくて、 江田さんとか多賀君なわけですよ。 多賀 単純に見える球場のフェンスのラインなんかでも、 本当にこだわっていましたね。 江田 あれは球場のバックネット裏のいちばん高いスタンドから グラウンドを見るシーンだったと思うけど、 多賀君とあいき君をつかまえて、グラウンドというのは こういう風に広がっているんだよというのを説明するのに、 画用紙をどんどんつないでスタンド全体もこうなっているんだよ と細かく教えていましたね。 ひとコマの中に出てくるのは、その一部なんだけども、 常に球場全体を計算しながら描かなきゃいけないんだということなんですよ。 島田 球場のフェンスのラインにしても、先生としてはこだわっているんですよ。 なにげない曲線で描かれているように見えるけど、そうじゃない。 高橋君なんかが来た時には、 それほど細かく言わなくなったけどね(笑)。 最初の頃は本当にうるさく言ってましたね。 あいき 観客でも、手を上げているやつ、帽子を振っているやつ、 色んなやつがいるんだよということは、よく言ってましたよ。 島田 一見どうでもいいようなところまでも、こだわっていたんだね。
食べものにもこだわりが!?――アシスタントとしては、やりにくい面もあったわけですね。
島田 仕事面で厳しいのは当たり前ですが、それ以外のたとえば食事の面ですとか、睡眠時間ですとか、 ずいぶん気を遣ってもらったと思いますよ。 江田 居心地のいいところだったな。 さっきなかいま君が天ぷらソバをごちそうになったことだけ 覚えていると言ったけれども、 うまいものはずいぶん食べさせてもらったよね。 食事のためのお手伝いさんもいましたしね。 島田 アットホーム的雰囲気は、いつもありましたね。 高橋 あきおさん自信が料理を作るのが好きだったね。 多賀 自分で作るのも好きだったけど、 おいしいものを食べに行くのも好きでしたね。 江田 締切り目前なのに、みんなで車に乗って うまいラーメンを食おうと夜中に出かけたこともあったね。 行ったら、あいにくと店が休みの日でね(笑)。 あきおさんは、この先にもうまい店があるから、そこに行こうと言って、 結局その店も休みだった(笑)。 島田 食べ物にもこだわっていたんだ(笑)。 江田 でも、私が最初にあきおさんの手伝いを始めた頃は、 食事が苦痛だった時もありましたね。 1日3食じゃなくて、5食から6食も食べるわけですからね。 島田 あきおさんは仕事の時はあんまり食べなかったように覚えているけどね。 僕はたくさん食べてましたけど(笑)。 高橋 そういえば、島田君、今やせたんじゃないの。 腹が引っこんだよ(笑)。 江田 あきおさんも、最初の頃はよく食べましたよ。 体はあまり大きい方じゃないけど、 つき合う僕の方がしんどかった。 島田 漫画家にとっては、仕事に入れば食べることだけが楽しみというところもあるからね。 仕事の途中では酒もなかなか飲めませんからね。 なかには飲む人もいたけどね(笑)。
頼まれると断れない人だった――色々と仕事場での楽しいお話も出てきましたが、他にも先生との個人的なエピソードがあれば、お聞かせ願えませんか。
島田 僕の個人的な先生との思い出というと、 ある事情で僕が故郷に帰った時に、 お金を貸していただいたということがあるんです。 高橋 あ、俺も借りた(笑)。 長男が生まれた時で、その日はちょうど日曜日だったんだ。 島田 でも、そんな金額はたかが知れてるだろう。 僕の場合はちょっとまとまった金額が必要になって、 それで先生に電話をしたんです。 先生がいくら必要なんだと聞くから、僕としても必要最低限の額を言ったんです。 それでもはんぱな額じゃなかったんですが、 よし分かったといって、すぐに銀行に振り込んでくれた。 本当にありがたかったですよ。 でも、あとで考えて、あんなに簡単に貸してくれるんなら、 もっと借りておけば楽だったのになあ(笑)。 もちろん、お借りしたものは返しましたけどね。 高橋 利子はどうしたの。 島田 支払うつもりで返しにいったんですが、 予想通り受け取ってくれなかった。 たぶんそうだろうと思って、 お土産を多めに持って行きましたけどね(笑)。 あいき 僕はお金は借りなかったけれども、 恋愛のアドバイサーとして、色々と相談したことはありますね。 なかいま あいきさんはたくさんガールフレンドがいたからなあ(笑)。 島田 あとはスポーツの思い出かな。 あきおさんは野球、ゴルフ、スキーとなんでもござれで、 海に潜ることも好きでしたね。 江田 一緒に伊豆の方に行ったこともあったね。 仕事と称して(笑)。 あいき 本当に居心地の良かった仕事場だったね。 自分で独立して仕事を始めてからは、 つくづくそう思います。 島田 待遇はよすぎるぐらいだったね。 それとあきおさんという人は、人に頼まれると断ることが出来ない人でしたね。 新聞の勧誘なんかも断れないで、取ってしまう。 高橋 だから、あの家は新聞が多かったんだ(笑)。 江田 そういえば、夜中に屋台のラーメン屋が仕事場の前に停まったことがあってね。 ちょうどいいからみんなで食べようということになったんだけども、 翌日から毎晩停まるようになって、 そうなるとあきおさんは「また食べるか《(笑)。 多賀 仕事以外の面では、人がよすぎるくらいの人でしたね。 でも仕事では、本当に苦しんで妥協しない。 これはよく覚えているんですが、 紙を小さく切って、その1枚を1ページに見たてて 話の最初から最後までを組み立てていることがありましたね。 それをズラーッと並べて、これは要らないから削ろうとか、 あるいは入れ替えようとかやってましたね。 それで、省略するのが大変なんだということを よく言ってましたよ。 江田 それは最後までやってましたね。 我々が仕事場に行っても、まだネーム(簡略な絵とセリフ)が 出来てないことがあって、あきおさんはまだ出来てないから 部屋からちょっと出てくれないかと言って、 我々は部屋の外でゴタゴタやってたんだけれども、 そのうちにあきおさんが出てきて、 いやー、どうしても出来ないんだよねと言うんですよ。 その時に部屋を見たら、相変わらずネームをズラーッと並べてやってましたね。 島田 あきおさんのそういうネームの作り方というのは、 てつや先生から学ばれたんでしょうかね。 江田 てつや先生のやり方は聞いてませんが、 あきおさんからはてつや先生のネームの作り方はすごいという話は聞いたことがあるけどね。 島田 あきおさんは、てつや先生のことを心から尊敬しているというか、 兄貴はこうしているんだとかいう話は、時々聞かされたことがありますね。 だから、お兄さんのやり方を踏襲するというか、 兄貴はああやっていたから、俺もこうやるという面は多分あったように思いますよ。 同時に弟の樹之さん(七三太朗氏)とコンビを組んで、 自分たちなりの作品を作っていくんだという気持ちも、 一方ではあったでしょうしね。 このあたりの話は江田さんの方がよくご存知でしょうが。 江田 あきおさんから、兄貴を追い越したいという話は聞いたことがあるな。 てつや先生はあきおさんがデビューした頃にはすでに大作家だったわけですね。 それで、あきおさんとしては樹之さんと二人でキャッチボールしながら ストーリーづくりをして、それで追い越すしかないもんな、 という話はしてましたね。 あいき 絵の方でも、初期のてつや先生風なタッチから、 フリーハンドを多用するタッチに意識して変えましたよね。 多賀 自分のものを出したいという気持ちは強かったように思いますね。 江田 最後の方では、白と黒だけでやりたいというようなことを言っていたな。 斜線とかスクリーントーンとかを出来るだけ使わないでね。 トーンも最初はあまり使っていなかったのが、『プレイボール』が始まってからは 外野の芝生の感じを出したいというので、使い始めたんです。 そしたら、これは俺の絵じゃないなといって、 だんだん減らしていったんですね。 多賀 斜線なんかも必要以上に使いませんでしたね。 江田 そうね。それで最後は白と黒でやりたいんだということを言ってましたよ。 島田 それと、あきおさんは外国の漫画もよく勉強しているというか、 研究していましたね。 書棚には外国の漫画が揃っていて、 私も何冊か借りたことがあるな。
大胆で繊細なペンタッチ
多賀 さきほど省略するのは大変なんだという先生の話をしましたが、 これはストーリーだけじゃなくて、絵でもそうなんですね。 単純な線で表現するというのは、 逆に大変なデッサン力がないと出来ませんよ。 そのあたりになると、僕らの技術じゃとても追いつけないという気持ちでしたね。 これは大変な先生についちゃったなと、 あとになって思いましたけど。 島田 出来るだけ単純な線や絵柄で表現することを目指していたね。 江田 これはかなりあとになってからのことですが、 締切りでみんなバタバタしてて、編集者も詰めているという時に、 俺もやるかと言ってバックを描き始めたことがあるんです。 でも、その時はひとコマ描いただけで、 やっぱりもうダメだなとやめてしまったということもありましたね(笑)。 高橋 そんなこともありましたね。 江田 みんなのペンタッチに合わせて描くのは難しいね、 とか言ってたね。 高橋 だけど、これはよく覚えているんですが、 岩場に捨てられたビールびんをひとつだけ描いたことがあって、 やっぱりすごいなと思いましたね。 マネの出来ない線なのね。 多賀 印刷されたものを見ても、先生の線は分かるものね。 『キャプテン』の最初の事は、校舎とか車とか先生が描かれていたんですが、 その線のタッチがやっぱり違うんですよ。 島田 単純だけれども、線に勢いがあるというのかな。 そんな感じだったね。 あいき 細かく見ると、はみ出したりしているところもあるんだけどね。 高橋 大胆さと繊細さとでもいうか(笑)。 独特なものがありましたね。 多賀 余分なものを削ぎおとしていく作業がすごかったな。 江田 高橋君が入って来た時、あきおさんは高橋君の線が気に入ってたみたいだったね。 大胆なところがあって、放っておくと、 オイオイという線になっちゃうんだけど、 うるさいことは言われなかったよね。 高橋 放っておかれてましたね(笑)。 島田 最初はベタ塗りとかだったよね。 あいき そのうちに頭角を現して、人物も描くようになったんだから、 やっぱり高橋君の線を気に入ってたんでしょうね。 なかいま 俺があきおさんのところでレギュラーで手伝うようになったのは 『チャンプ』が始まる時からでしたね。 それまでは、さっきも言ったように犬のベタ塗りだけ(笑)。 みやさんのところはやめていて、 その時にはあきおさんのところには高橋さんだけでしたよね。 で、ほとんど手伝ったことのない人間が、 いきなりバックを担当させられたんです。 最初の頃はボクシングジムのシーンが多くて、 厚紙にジムの俯瞰図と、 トレーニングルームとかリングとかの場所場所の角度を変えた絵があって、 その説明を受けてね。 あとは場所を教えてもらって描くだけ(笑)。 高橋 細かい資料もなくね(笑)。 なかいま 技術的なことは何も言われませんでしたね。 ただ遠近感などが狂っていると、 直接じゃなくて、「宏、ちょっと来い《とあきおさんが言ってね(笑)。 高橋 辛い立場だったね(笑)。 なかいま そのあと、あいきさんがちょくちょく来るようになって、 江田さんも来ましたからね。 だからあきおさんが技術的、作品的にどういうものを目指していたかは 分からなかったんですが、 あきおさんの苦脳振りというのは、 まざまざと見せられましたね。 江田 そうだったね。 なかいま 俺の場合は、その月の15日頃から呼ばれて1週間から10日ぐらいいるんですが、 仕事があるのは最後の2日か3日ぐらいで、 仕事場であきおさんと顔を合わせているのは何時間あるかという感じでしたね。 高橋 別の部屋でやり始めたからね。 ネームが遅れ気味で一緒にいるのが辛かったんだろうね。 なかいま だから、仕事場に行っても、飯食って、寝て、 あとはグダグダ言ってるだけという(笑)。 たまに夜中にあきおさんが顔を出して、悪いなと言ってね。 仕事するのかと思うと、 またすぐにいなくなっちゃう(笑)。
大好きだった志ん生の落語――このへんで、今まで出てきたお話以外に先生がお好きだったことなどがあれば、 お聞かせ下さい。
――他に作品的なこととか、あるいは同時代の他の漫画家について、 ちば先生が言っていたようなことはありませんか。
なかいま あきおさんは落語が好きでしたよね。 とくに志ん生。 江田 よくレコードをかけながら仕事していたよね。 なかいま 僕は枝雀が好きなんです。 で、あきおさんと落語の話をした時に、 枝雀のことを話したら、あきおさんは枝雀を知らなくてね。 僕は志ん生を知らなかった(笑)。 僕は次の仕事の時に枝雀のテープを持って行って、 聞かせたんです。 そしたら、あきおさんは志ん生派だから、 「ウーン《と言っただけで、受け入れようとしない(笑)。 そのあと僕は志ん生を聞いて、 その時はやっぱり枝雀の方が上だと思いましたね(笑)。 高橋 年代があるんだよ(笑)。 多賀 仕事の時には、落語以外にクラシックなんかも聞いていましたよね。 江田 ステレオなんかも、手作りの高価なものを持っていたね。 それで志ん生を聞くんだけど、 志ん生のレコードって全部モノラルなんだよね(笑)。 なかいま 私も今では、あきおさんの影響で志ん生のCD全集を持ってますよ。 でも、何だかグニャグニャ喋ってるだけでね(笑)。 島田 僕はレコードで全集を持っているけど、やっぱりいいよ。 なかいま君の世代では無理かも分からんが(笑)。 高橋 俺もね、最初聞かされた時は笑って仕事にならないんだよね。 島田 てつや先生なんかもちばプロでは落語を聞きながら仕事をしていたと言いますから、 あきおさんも、その影響があったのかも知れないな。 下町で育った江戸っ子ということもあったろうし。 高橋 それで上方落語は受け入れなかったのかも知れないね。 なかいま でも、僕は枝雀だけじゃなく、小三治なんかも大好きだけどね(笑)。 そういえば、あきおさんは人情噺が好きだったね。 高橋 山本周五郎の小説なんかも好きでね。 多賀 志ん生といえば、もう一人の吊人がいましたよね。 江田 文楽のこと? 多賀 そうそう文楽。先生に聞いた話なんですが、 志ん生というのは、その日の気分で大胆に省略したり融通無礙というか、定型がない。 それに対して文楽はいつもキチッとした噺をする。 その違いが面白いんだよということでしたね。 江田 文楽は1時間の噺はきっちり1時間でやるけども、 志ん生は30分でやってくれと言われると、30分でやってしまう。 これはすごいことなんだということですね。 大胆に省略するけれど、それで決してつまらないものにはならなくて、 志ん生の味がちゃんと出る。 そんなところも好きだったようでしたね。 島田 先生の作品的なことについていうと、女の子が全然出てきませんでしたね。 これは自分でも女の子が描けないんだと言っていましたけれども。 あいき 『トーボくん』にはちょこっと出てきましたけどね。 なかいま 俺もあきおさんは、女がヘタだなあと思っていた(笑)。 多賀 これは僕がアシスタントに採用された時のことなんですが、 冗談で先生はどんな女の人が好きなんですかと聞いたことがあるんです。 その時に先生が女の人の顔を描いてくれましてね。 ちょっとボーイッシュな感じの女性で、 あとで考えると、先生の奥さんによく似ていた(笑)。 先生はその紙をすぐに丸めて捨てちゃいましたけども(笑)。 高橋 真っ赤な顔をしていたんじゃない(笑)。 目に浮かぶな、その時の顔が。 島田 奥さんに惚れてたからね。
島田 自分の作品についても、また他の作家の作品についても、 あまり話はされませんでしたね。 江田 それほど読んでいなかったのかも知れないね。 高橋 ただ、鳥山明さんについては、 最初から評価していましたね。 多賀 好きな作品は買ってましたね。 手塚さんの全集なんかも揃っていたし、 その他にも買って読んでいる作品はあったみたいでしたね。 あいき つげ義春さんの作品とかバロン吉元さんの『柔俠伝』なんかも持っていましたよね。 水木しげるさんの本も買っていましたし、やっぱり好きな作家、 作品というのはあったんじゃないかな。 江田 でも好き嫌いを口に出して言うことは、ほとんどなかったなあ。 まあ、自分の作品のことで精一杯ということもあったんでしょうが。 何しろ手抜きの出来ない人でしたからね。 色紙一枚描くのにも悩むようなね。 高橋 そんなところもあったな。 江田 たかが色紙といっても、あんまり変なものは描けないし、 描くんだったらちゃんとしたのを描きたいと言ってましたね。 高橋 俺の持ってる色紙には『キャプテン』の近藤が描いてあるんだけど、 その近藤の目が真っ黒で、ホワイトが入っていてね。 ホワイトが入っていて悪いんだけどと言ってもらったことがありましたよ(笑)。 江田 色紙1枚あげるだけでも、気配りというか、 相手のことを思いやる気持ちが出てしまうんだね。 根っからの優しい人なんだな。 多賀 先生の人間を見る目が優しいというか、 登場人物の中にも悪いやつっていないんですよね。 あいき あったかいのね。 多賀 それでスーパースターというのが出てこない。 主人公にしても、どこにでもいるような感じですよね。 登場人物は優しいんだけれども、それを創り出す先生は自分に対して非常に厳しかった。 まあ、先生のことをひと言でいえば、他人に優しく自分に厳しいということでしょうか。 島田 他人に対する思いやりということを、 教えてもらった感じですね。 その影響は受けている気がします。 あいき 我々だと、仕事をしていても、どうしても妥協するというか、甘いところが出てしまうんですが、 あせらず100%をいつも出して行こうという姿勢は、 見習うものがありましたね。 島田 だから、先生の作品には、どれをとっても"ちばあきお"という信頼のブランドが付いている感じなんだね。 江田さんもおっしゃっていたけど、これって本当にすごいことなんだと思いますね。 江田 結局、あきおさんは完璧主義者なんだね。 ストーリーにしても絵にしても。 島田 それは感じたね。
漫画家ちばあきお誕生の時期は!?
島田 月刊のジャンプで『キャプテン』の連載がスタートする前というのは、 年間でもたいした枚数の原稿は描いていなかったんじゃないかな、あきおさんは。 年間でせいぜい30枚程度のもんでしょう。 江田 締切りも、あってないようなものだったようですよ。 読切で月刊ジャンプに載った『校舎うらのイレブン』というのは、 100枚の作品だけど、これも締切りなんて関係なかったみたいだしね。 その次の『半ちゃん』は締切りを守ったようだけど、 それでも半年ぐらいかかっているんじゃないかな。 高橋 『校舎うらのイレブン』は最初から100枚という注文じゃなかったと聞いてましたけれども…。 江田 最初はもっと少ない枚数だったようですよ。 島田 そういった長編読切を描き始める前というのは、 先生の描いた原稿枚数は、考えられないほど少なかったんじゃないかな。 江田 デビュー当初は少女ものが多かったみたいだね。 島田 まあ、先生も本格的に連載を始めるまでは、 楽なペースで仕事をしていたんでしょうね。 今から考えると、いい立場だったなあという気がしますね(笑)。 あいき 気が向いた時に、描きたいものを描くという感じで、 うらやましいですよ(笑)。 高橋 それ以前というのは、てつや先生のアシスタントをしていたんですよね。 島田 そうそう。 それで自分の作品も時々描いていたという形だったんだろうね。 江田 先日、あいき君と一緒に、あきおさんの原稿整理に行ってきましたが、 我々の知らない原稿というのも、ずいぶん出てきましたね。 新聞に連載していたやつとかね。 ですから、量としてはムチャムチャ多いというわけではないですが、 そこそこにはずっと描いていたということはあるみたいですね。 あいき 初期の頃は、てつや先生の手伝いをしていたということもあるんでしょうが、 絵柄もてつや先生に似た感じでしたよね。 江田 絵柄的にも作風としても、『校舎うらのイレブン』とか『半ちゃん』とか、 あのあたりでちばあきおという漫画家が完成したなという感じはありますね。 キャラクターなんかもね。 高橋 その当時の原稿を見たことがあるんですが、 ホワイトが万遍なく入っていて、それが印象に残っているなあ(笑)。 江田 いや『キャプテン』始めの頃でもキャラの目が違うとか、 ほっぺたの汚れの感じが違うとかいって、 ほんとにホワイトがすごかった。 島田 俺がホワイトをたくさん使うようになったのも、 あきおさんの影響なんだろうなあ(笑)。 高橋 そんなにホワイト使ってたっけ(笑)。 島田 俺はともかく、あきおさんは本当にホワイトをよく使ってた。 あいき 原稿の上でホワイトが山盛りになってたもんね(笑)。 島田 ベタ塗りってある上にホワイトを塗って描き直すんだものね。 そんなの、俺知らなかったよ。 そういうやり方があるってことをね。 高橋 今はまた違う方法があるけどね。 でも、そういうホワイトの多用というのは、やっぱり自分の絵に対するこだわりみたいなものがあったからでしょうね。 そういえば、亡くなられたあとに、『チャンプ』の続きを始めるかという話もあったけど、 あれはあくまであきおさんの作品だから、誰が描くにしても続編はなくてよかったという気がするな。 なかいま 俺もそう思う。 高橋 そういえば、なかいま君は、続編はやめてくれって言ってたね。 なかいま そんなこと言ったっけ。 高橋 言ったよ(笑)。 なかいま まあ、今でもそう思ってますけどね。 かりにお兄さんのてつや先生でもね。 高橋 俺が描くってか(笑)。 なかいま いや、あの作品はあれで完結してるんですよ。 また完結させなきゃいけないもんなんですよ。
ちばあきお作品のキャラクターの魅力――ところで、みなさんはちばあきおさんの作品の中で、どの作品がお好きなんでしょうか。 あるいは好きなキャラクターでも構いませんが。
――本当にそうですね。新しいちばあきおファンが出てきても上思議ではないという魅力が、 今でもありますからね。 それでは、本日はどうも長時間、ありがとうございました。
江田 僕は作品としては読切の『みちくさ』が一番好きですね。 キャラクターもストーリーも、いかにもあきおさんの作品だなという感じがしてね。 優等生とガキ大将の二人の小学生が壊れた地下室に閉じ込められてしまう話なんだけど、 最後に助かるということが分かった時に、 あわてて勉強道具を集めるシーンがあって、 あそこが好きですね。 島田 僕はやっぱり『キャプテン』だな。 とくに丸井とイガラシは双璧だという気がしますね。 最初のキャプテンの谷口より、この二人の方が、 性格というか個性づけが際立っていると思うし、 脇役として登場してきたんだけれども、すごく印象に残るキャラクターになっていましたよね。 とくに丸井のとぼけたところとおっちょこちょいなところが、 いい味が出てましたね。 結構ああいう人間て、どこにもいそうじゃないですか、世の中に。 あいき あきおさんとしては、イガラシが好きだったみたいでしたけどね。 江田 イガラシのキャラクターというのは、 『キャプテン』の前に描かれた『半ちゃん』の中に出てくるんですよね。 だから、キャラクターとしてはイガラシに愛着があったのかなという気はするね。 でも『キャプテン』の後半では、近藤のことが結構気に入ってましたよね。 俺は、あれは高橋君の影響じゃなかったかと思っているんですけどね(笑)。 高橋 だって吊前が違うじゃない(笑)。 江田 あの頃、高橋君、歯が欠けていたじゃない。 それで、あきおさん、近藤の歯のない顔を描くとき、 結構ニコニコしながら描いているのを覚えてるよ(笑)。 高橋 俺は全部好きですよ。 こんなこと言うと、ちょっとカッコよすぎるか(笑)。 まあ、手伝った関係でいうと『ふしぎトーボくん』が印象に残ってるけどね。 それまでの作品とはまるきり違う絵で行こうというんで、 あきおさんも意気込んでいたしね。 おもしろい絵の作品をと、あきおさんも言ってたな。 多賀 私は、好きな作品というと、さっき江田さんが言った『みちくさ』は、 本当にいい作品だなと思ってましたね。 話も先生の絵柄にピッタリで、完成度の高い作品じゃないかと思います。 あとは最後の作品になった『チャンプ』。 これも先生のいい画が非常に出ていた作品で、 代表作になるんじゃないかと期待していたんですが、 残念でならないですね。 なかいま おれは、最初にベタ塗りをさせられた『トーボくん』の黒犬ですかね(笑)。 まあ、それは冗談として『キャプテン』のイガラシというか、イガラシ兄弟。 このキャラクターはいいですね。 当時はそう思ってなかったんですが、今考えるとあきおさんという人は、 人に対してズケズケものを言うタイプじゃなかったですよね。 他人に優しい人だった。 イガラシはその反対で、ズゲズゲ言うんだよね。
あれって結構あきおさんの本音じゃなかったのかという気がするわけ。 だけど、イガラシの周りの人間は、なかなか分かってあげようとしない。 このままだと、救いがなくてイガラシは辛いだろうなあと思うんです。 それで弟が兄貴の控えというか、理解者として出てきたんじゃないかな。 イガラシは周りには厳しいことを言うんだけども、弟はなぜ兄貴がズケズケ厳しいことを言うかちゃんと分かっている。 これって、ホッとする。 だから僕はイガラシ兄弟が好きですね。高橋 意外にも谷口という吊前が挙がってこないんだけど(笑)。 これは別格ですね。 多賀 キャラクターとしては、やっぱり谷口ですよ。 ただ、作品というと、私は『みちくさ』の完成度に魅かれるんですよ。 高橋 『プレイボール』の最初の方で、指がダメで谷口が野球ができないというところがありますよね。 それで谷口はサッカー部に入るんだけども、 草野球で審判したりするわけですよ。 あの場面は泣けるよね。 なかいま あれは最初から野球に戻すつもりで、サッカーをやらせたのかしら。 高橋 そうだね。 それで、河川敷か何かのシーンなんだけど、 本当に泣かせる場面なんですよ。 江田 またセリフが泣かせるんだね。 ああいうところは、本当にうまいなあ。 高橋 ちくしょうめ(笑)。 多賀 これはセリフのうまさに関係すると思うんですが、 映画のシナリオなんかをよく読んでいましたよね。 また映画も好きだった。 高橋 この映画はいから観ろ、とか言ってたね。 『その男ゾルバ』とか。 島田 ちょっとひとクセありそうな映画とか主人公が好きだったんだね。 江田 当時はまだビデオが普及していなかったけれども、 そんなのも早い時期から買って映画をよく観てましたよね。 結構、新しモノ好きなところのあってね。 高橋 それで自慢するのね(笑)。 江田 オーディオ機器なんかも、すごいのがあったしね。 あいき 最初の頃はクラシックを熱心に聴いていましたが、 あとの方では松田聖子とかも聴いてたね(笑)。 高橋 太田裕美とかね。 島田 誰かの影響じゃないのかな(笑)。 江田 でも、やっぱりクラシックは好きでしたね。 自分でもクラシックギターなんか習っててね。 高橋 教わったりするのが好きみたいでしたね。 江田 うん。それで徹底してやってしまう。 スキーなんかもそうでしたね。 インストラクターについて、一所懸命に教わっていたものね。 ある時、ちょっとスキーに行って来るよと言うから、 その辺行くのかなと思ったらアラスカまでスキーに行っちゃった(笑)。 スキューバダイビングにしても、まだそれほど流行ってない頃に、よく行っていたものね。 やり出すと、徹底してやっちゃう。 ゴルフもそうだし、一時は仕事の合間によく抜け出して練習に行ってたね。 それで帰ってくると、シャワーを浴びて、あーいい汗かいた(笑)。 島田 仕事のあとにゴルフの予定が入っていると、 結構早く上がったりね(笑)。 江田 そういえば、あきおさんのお父さんが、てつや先生も原稿の上がりが遅いので、 あきおみたいに単純な絵にすれば、早く上がるのにと言ってね(笑)。 てつやさんはそんな簡単にはいかないんだよと言ったらしいんだけども、 あきおさんは「まいったなあ《って言ってたなあ(笑)。 なかいま 意外にあきおさんはグサッってきたかもしれないな(笑)。 江田 そうかも知れない(笑)。 でも、それなりに自信は持っていたからね。 島田 それは持ってたと思いますよ。 ともかく、僕なんかは、あきおさんに出会って本当によかったなと今でも思ってますよ。 江田 亡くなって10年経つわけですが、ますますすごい人だったなあという思いがしてるんですよ。 その証明というか、今読み返しても、ちっとも古くなってない。 これは変化の早い時代の中では、大変なことだという気がしますね。 親戚の小学生や中学生に時々読ませることがあるんです。 すると、みんな夢中になって読んでいる。 そんな時は、ああやっぱりすごいなあと思うんですよ。
(「ちばあきおのすべて《より)