自分で選んだ道だったんです
ちばてつや インタビュー
◆平凡な少年の物語『キャプテン』の魅力
◆心配だったはじめての長期連載
◆アニメ化は作品を嫁に出すつもりで
◆満州 ちば兄弟の原風景
◆あきお少年のふしぎ交友録
◆兄のアシスタント、そしてマンガ家へ
◆兄にも描けない「ちばあきお」独特の世界
◆ふたりのマンガ家が最後にかわした言葉は…
平凡な少年の物語『キャプテン』の魅力一読者として『キャプテン』の魅力を考えるとき、総じて、あきおのキャラクターにいえるのは、平凡などこにでもいるような少年ということですね。それがある日、何かに目覚めて目的をもったときに、一生懸命自分を変えようとする。その一生懸命努力して階段を一段ずつ上っていこうとする姿勢が人をとても感動させるんじゃないかなぁ。
もちろん天才が「がんばる」っていうのもすごいことですよ。でも、自分と同じような、あるいはもしかしたら自分よりダメかもしれないやつが(笑)一生懸命になる姿を描くことで、読者を「俺もやれるかもしれない」とか「自分もやってみたい」という気持ちにさせるんだろうと思いましたしね。
僕は、谷口も丸井もイガラシも、それから歯の抜けた大きいの(近藤)もみんな好きなんです。それぞれに、あきおのいろいろな側面が現れていますからね。
キャラクターの造形には、彼の人間の見方、哲学とか物の考え方、人間とはこんなものではないか、人間はこういうふうに生きると貧しくても美しいんじゃないか、そういったメッセージが出ているはずなんです。
それから、僕も後半の作品でずいぶん手伝ってもらいましたが、一番下の弟、樹之が「キャプテン」のエピソードを、あきおと一緒に考えています。樹之は兄貴たちを手伝ってるうちにそれが仕事になってしまって、いまは七三太朗(『ふしぎトーボくん』『風光る』などの原作多数)というペンネームでいろいろな原案を創っていますが、兄弟ということもあるんだろうけど、樹之の作ってくる話には、すごく地味なのに「いい話だなぁ」と共感することがよくあって、あきおもそれでずいぶん助けてもらったんではないでしょうか。
だから歴代のキャプテンのなかには、あきおと樹之のふたりが共感する性格というものが凝縮されているような気がしますね。長兄として「なるほど、こういう男を描いてきたか…、これはおもしろい」なんて感心させられたこともありましたし、あきおの描いた『キャプテン』をはじめとする作品群や、七三太朗がいま書いているものなどには、やはり血のつながりを感じます。 心配だったはじめての長期連載『キャプテン』は『月間少年ジャンプ』、そのときはまだ別冊だったかな、に連載されるものをずっと読んでいました。最初はちょっと心配でねぇ、気になってみていました。もちろん、すでにいくつもの作品を発表していましたから、心配といってもデビューのころとはちがう意味なんですが。
作品については、一度だけ「あまりにも淡々と描きすぎているから、キャラクターが絞り出す熱い汗みたいなののがちょっと足らないんじゃないか、もっと汗をかいたほうがいいんじゃないか」と言ったことがあります。あきおは僕の話を聞いていましたけど、その後も変化はなかったみたいですね。あきおにはあきおのペースがあっただろうし、自分で「この線で十分表現できている」と思ったから変えなかったんだろうなぁ。あきおに何か言ったのはそれくらいで、あとは教えたり、アドバイスしたことはないんですよ。
僕はどちらかというと『あしたのジョー』や『のたり松太郎』のようにリアルな作品を描いていますが、本当は、あきおのような、あったかいホワッとした、できるだけ少ない線で表現できるキャラクターの描き方がすきだったんです。ですから最初に、あきおの作品を見たとき「僕が一番好きなタッチの線だな」と思いましたね。ただ、あの線はちょっと頼りない感じがするでしょう。『キャプテン』の連載を読んだときも、それでハラハラしたんですよ。「あれ? すこしデッサン狂ってんじゃないかな」とかね(笑)。
ところが僕自身、マンガを描きはじめたころは、こういう絵が好きだったんですよ。単行本の描き下ろしから少女マンガのころはとくにそうでした。『ちかいの魔球』にしても『ハリスの旋風』にしても鼻がくるって丸くて、わりとコロコロしてますね。それが変わったのは『あしたのジョー』からだったかなぁ。
なにしろ血しぶきが飛ぶような話だったし、減量がありますから、キャラクターがコロコロしていたら描けないんですよ(笑)。いくらセリフがあっても、減量するようすを絵で表現するとあばらが浮いたり、頬がこけたり、無精ひげが伸びたり、目がくぼんだりするわけですね。それで僕の絵は徐々に、劇画タッチに変わっていくことになったんです。
逆にあきおは僕のアシスタントをやっていて、僕のタッチから抜け出すのにすごく苦労して、そしてあの柔らかいタッチの絵にたどりついている。だから、まったく同じマンガの世界に入って、表現する世界もわりと似ていたけれど、いろいろな意味でちがう道を歩んだという気はしますねぇ。 アニメ化は作品を嫁に出すつもりでアニメの『キャプテン』はしっかり見ていないんです。でも、はじめて見たときは「アニメのほうが絵がうまいな」って思いました(笑)。
じつはアニメーションっていうのはマンガとは別の世界なんですね。僕は最初、アニメは週刊誌、月刊誌で人気が出た作品をもとに作るわけだから、できるだけそれに忠実なのがいいと思ったんだけれど、だんだん「これはちがうんだな」ということに気づいたの。たとえば『あしたのジョー』なんて三ヶ月くらいかけて描いた話が30分に収まっちゃう。テンポがちがうから、テレビでそれ以上ゆっくりすると間延びするんだね。
キャラクターの基本的なとらえ方がちがうときは文句を言ったことがありますよ。僕のある作品がアニメ化されたとき、単行本の各巻をそれぞれ別々の脚本家に渡してシナリオを書かせたことがあったんです。脚本家は与えられた部分しか読んでいないから、物語全体の流れや背景がわからない。当然、主人公の動きの意味がわからないから描き方がおかしなものになる。さすがに、そのときはプロデュースのやり方がちがうんじゃないかという話をしました。
自分のマンガですから、アニメになることでもっといいものになってほしいと思って、はじめシナリオの細かいところまでチェックを入れたりして非常に深く首を突っこんだんですが、こっちが参っちゃったんですよ。週刊誌をやりながらでしたから寝る時間がなくなっちゃって。第一、テンポが速いからやっとシナリオ直しおえたころは、コンテから動画にかかってしまっていて手遅れなんです。結局、物理的に僕が口を挟んでも無駄だってことがわかったし、アニメにはアニメの役割があると思ったのであきらめたんです。
そのとき、あきおはまだ僕の手伝いをしていましたから「こんなアニメになっちゃった」という話はしました。だから『キャプテン』がアニメ化されるときも、脚本を書く人には、担当する単行本一冊だけでなく、出版されている全巻読んでもらうように言ったほうがいいよ、それだけは注意したほうがいいと。あとは娘を嫁にやった気持ちで任せろ、とアドバイスしました。アニメの『キャプテン』については、このアドバイスがうまく働いたんじゃないですか。 満州 ちば兄弟の原風景僕は日本で生まれて一歳で満州へ渡っていますが、その当時の記憶はありません。奉天で終戦を迎えたとき六歳でした。あきおは二歳ですから奉天時代はほとんど覚えていないと思いますね。親父は印刷会社に勤めていて、家族は終戦まで奉天の日本人街にある、社宅に住んでいました。社宅は高い堀に囲まれていましてね、結構広いし、工場の現場には入れませんでしたけど、紙が積み上げてあったり、いろいろ遊び場はあったんです。
ただ満州は冬場、氷点下何十度ですから、寒くなったら子どもは堀の外どころか表へ出ることもできません。そんなときは家のなかで絵を描いていましたね。印刷会社ですからヤレ紙(裁断したあとの捨てる部分)がいっぱいあるんです。切れ端は焚きつけにするんですが、大きめのやつを親父が僕にくれましてね、そこに字を書いたり絵を描いたりしていました。早い子だと二歳くらいからでも絵を描いたりしますが、あきおは絵を描く子供じゃなかったなぁ。
奉天で終戦を迎えてから、日本に引き揚げるまで約一年あったんですが、その間、僕たちの家族は、知り合いの中国人の家の屋根裏に隠れ住んでいました。当時は日本人がいることがバレたらどんな目に遭うかわかりませんでしたからね。男の子兄弟四人でしょう。屋根裏から出られないから退屈でしょうがない。そのとき持っていた童話、たしか二冊だったとおもいますけど、それをお袋が読んでくれました。
ところがある動物が出てきても、子供にはわからないんですよ。で、弟たちが「ヒヨコってどんなの?」って聞くわけです。そうするとお袋が「ヒヨコっていうのは鶏の赤ちゃんで、黄色くて、毛がフワフワしてて……」って絵を描くんだけど、それがどうもちがうんですね(笑)。それを僕が「こうじゃない?」って直す。そうしたら「あなたお兄ちゃんなんだから、弟たちに絵を描いて見せてやんなさい」って言われて、それでイラストを描いて、紙芝居みたいにして弟たちにお話を聞かせることになったんです。とにかく表へ出られなくて退屈していますから弟たちも喜んでくれましたね。
うちの親父は引き上げてきてから一時期、貸本屋をやってたことがあるくらい本好きで、本を持っていました。奉天の社宅にいたころは書棚の一番下に子供向けの本を入れておいてくれたので、僕なんか四歳くらいから、そこにあった『イソップ物語』だとか『アンデルセン童話集』を片っ端から読んでたみたいです。僕はその中の挿絵が好きでねぇ。ものすごくイメージがふくらむでしょう。本を読むときにいい挿絵があると世界が定まるんですよ。弟たちのためにイラストを描いたのも、そんな下地があったのかもしれないなぁ。
ただ、わが家にマンガは一冊もなかったし、マンガノ存在を知ったとのも日本へ帰ってきてからでした。うちは変に厳しいところがあって子供が四人もいたわりにはマンガを買ってくれなかったんですよ。僕が仲のいい友人の家で『のらくろ』なんかを見せてもらうようになるのは、ずいぶん大きくなってからでしたし、それでも親に隠れて読んでいましたよ。あきおはマンガの貸し借りをするような同世代の友だちとつきあいがありませんでしたからね。それこそ、あきおとマンガの出会いは僕がマンガを描くようになってからかもしれません。 あきお少年のふしぎ交友録あきおは我々四人兄弟の中でも、ちゅっと変わってましたねぇ。小学生くらいのときから、すぐ大人と友達になるんですよ。「どこにいったの?」って聞いたら「何とかさんの家だよ」っていうから迎えにいくと、その何とかさんとラジオを組み立てたりして遊んでいるわけですよ。ほかにも鳩の飼い方を習ったりね。
いまだによくわからないだけど、そのころって、働かないで昼間っからプラプラしてる大人が結構いたんですよ。意外に難しい本を読んでいて、本棚に学者みたいな本が並んでたりするんだけど、昼間っからステテコでラジオを組み立ててるような人がねぇ。僕は、あきおを探しに何とかさんのところへ行ったんだけど、昔、石球スーパーラジオとかってありましたよね、あれをはさんで対等に話しているんですよ、おっさんとチビが専門用語を使って(笑)。僕なんかよく言葉もわかんなかったんだけど、ラジオを見ながら「そこんとこは線をつながない方がいいんじゃないか」とかやってる。
実際エンジニアを目指していただけあって、何につけ手先は器用でした。あきおの自伝マンガ『がんばらなくっちゃ』のなかで、壊れかけたラジオを叩いて直そうとする兄を「叩きゃ直ると思ってんだから」と弟が怒るシーンが出てきますが、あれも僕とあきおの実話です。
未熟児で生まれて、取り上げたお医者さんが逆さにして背中やおしりを叩いたら、やっと「ヒー」って泣いたっていうくらい、体は華奢でしたけど、そのぶいん繊細に作られていたっていうか、我々兄貴とは種類がちがう感じがありましたねぇ。兄弟みんな「こいつはちょっとちがう」って一目置いていましたよ。本人にもその自覚はあったんじゃないかなぁ。
何をやるにも近道を知っていましたね。ギターをはじめれば、いつの間にかうまくなって「アルハンブラ」なんか弾いているし、スポーツも万能。普通、ゴルフはじめると最初は自己流で振りまわしたりするものなんですが、あきおはすぐレッスンプロについて基本をちゃんと習うんです。だから、あっという間に僕よりうまくなっちゃって、先にはじめたこっちがあきおに教わったりして(笑)。一緒に暮らしていますから僕が野球チームを作ればメンバーにはいるし、スキューバをはじめたらつきあうし……。まあ、僕がつきあってもらったのかもしれないけれどね。 兄のアシスタント、そしてマンガ家へあきおは高校に入学してまもなく腎臓の病気をしまして、しばらく学校に行けない時期があったんです。水分は取らなくちゃいけないけれど塩分はダメで、スイカばっかり食っていたのを覚えてますよ。工業高校の夜間部に通って、昼間はおもちゃ工場に勤めていたりしてたんですが病気のせいで仕事を辞め、家にいるようになった。それで僕が忙しいとき「ベタくらい手伝え」って声をかけたんです。お袋に頼むと髪の毛と一緒に耳を塗りつぶしちゃったりするんでねぇ(笑)。
任しとけばなんでもこなしてくれたし、兄弟だから聞きやすいこともあったんだろうけれど「こんなんでいいんかぁ?」なんて持ってくるから「あ、いい、いい」とか「もうちょっと細かくやってくれ」なんて頼みやすかった。新しいアシスタントが来たらいろいろ教えたりしてくれたんで、僕は助かりましたよ。
体が弱かったからあまり無理はさせたくなかったんだけれど、僕自身だんだん締め切りに追われて、二日も三日も完徹なんていうことも出てきたんですね。それで、あるとき僕はへばって寝ちゃった。パッと目を覚ましたら、あきおがひとりでコリコリやってるんですよ。さすがにそれを見たときは、かわいそうなことしちゃったのかなぁ、ほかの仕事させてやればよかったなぁって思いました。
あきおのデビューは、僕のところへ来てた『なかよし』の伊藤編集長が『あきおちゃん、そろそろ自分のマンガを描いてみたら』って声をかけてくれたのがきっかけでしたね。絵は器用だし、僕のアシスタントぶりを見てて、頼んでみようと思ったんでしょう。そこから、あきおは僕とちがう自分のオリジナルを生み出そうと葛藤するわけですけれど、僕も締め切りに追われていましたからアドバイスなんかできる状況じゃない。でも同じ家にいるんですから、あきおが「ああでもない、こうでもない」っていいながら破っては捨て、破っては捨てしてるのが見えるんですよねぇ。それを見ると「ああ、苦しんでるなぁ」と思いました。でも自分自身もそうでしたから……。こういう仕事はそういうものなんだ、と。
僕の手伝いをしていたときは、半分冗談でよく「兄貴は遅いな」とか「何でそんなに間をかけてんだか、いつmでもアマチュアだな」って言われました。あきおは最初、鼻で笑ってたんですよ。「そんなに細かいとこまで読者は見ねぇよ」なんてね(笑)。でも、自分で描いてみて、いろいろわかったみたいですよ。
頬がこけるぐらい苦しんでいましたけれど、描き上げたときのうれしそうな顔っていったらなかったですね。完成まで一年近くかかったデビュー作が仕上がったときに、僕が「おもしろいなぁ」っていったんですよ。そうしたら疲れていた顔が、ポーっと桜色に上気しましてね。それは僕がほめたからってことじゃなくて、完成したっていう安堵感と、モノを作る人間は誰でもそうだと思うんだけど、描き上げた作品がおもしろいのか失敗したのかわからないんですよね。「これでいいのかなぁ」と思いながら、時間がくれば決断して出すしかない。それが評価されたってことがうれしかったんだと思います。
僕も、そのころ連載を持って、生活こそ安定してきましたが、まだまだ駆け出しでしたから、同じ苦しみをわかりあえるやつがそばにいるってだけで心強かったですよね。かわいそうだな、とも思いましたよ。自分がキツイからね。でも、僕は一度だって、あきおに「描いてみたら」何て言ったことはない。それは彼が自分で選んだ道だったんです。 兄にも描けない「ちばあきお」独特の世界お互いの作品を批評することはありませんでした。今週の『キャプテン』はどうだった、今回の『あしたのジョー』はこうだった、なんていう話は一切出たためしがない。おそらく本人から批評を求められたら、僕もそのために何か見つけただろうと思うし、実際あきおがデビューするしないでジタバタしていたときは、気になって気になって覗いたりしましたけど、あるていど「イケルな」という感触をつかんでからは何も言いませんでしたよ。
何もないところからストーリーを作るっていうのは、雲をつかむような苦しい作業なんです。捨てたり、拾ったり、くっつけたり。しかも「これでいい」という確信が持てないんですね。でも、プロになったらそれを自分で判断して「これくらいだったらヨシ」として、絵に取りかかる見切りが必要になる。お互いに作品は読んでいるんですよ。でも、そういう苦労がわかっているからこそ批評めいたことは言わなかったのかもしれません。
むしろ編集者のアドバイスは大きかったと思いますね。とくに連載の出だしは、あきおは自信がなくて不安定でしたから。たくさんの編集者のかたたちが、あきおのことを買ってくれていた。あきおが、いつも自信のないそぶりをするもんで、みなさん気にかかったんでしょう(笑)。
でも晩年のあきおの作品に関しては、線が頼りないとはときどき感じたんだけれど、そのヨレヨレした線ですら、あきおの魅力なんだってことに気づいたんです。そういう独自の世界を作っているんだ、ということにね。僕は最初のうち「発展途上かな」と思っていました。まだまだうまくなって、デッサンもしっかりしてくるのかな、と。そうじゃなくて、あきおの場合は、それで完成していたわけです。
それ以上線に力が入ってしまうと、今度は、あきおの世界じゃなくなってしまうんですよ。ある時期からはそう思っていたし、頼りない線なのに個性がしっかり出ていて、それが際だって魅力的に見えたなぁ。むしろ、こういう線じゃなくちゃダメなんだという確信さえ持ちましたね。
あの世界は、あの線で、あきおの感覚で、あきおの間の取り方でないと描けない。あきおの線でジョーや力石が描けないように、僕には谷口やトーボくんは描けないんです。だから僕は、自分だったら『キャプテン』をどう描いただろう、なんて想像したこともありません。あきおは体調が許せば『キャプテン』の続編『プレイボール』も墨高の甲子園出場まで描きたかったし、さらにプロ野球編のような構想も持っていたようですが。
ただ、あきおが亡くなったとき『チャンプ』が中途半端なかたちで終わってるってこともあって、これは、あきおもちょっと心残りかなぁ、と。だから誰にも頼まれた訳じゃないんだけれど、続きを……と考えました、気持ちとしてね。一緒に話を作っているのは末弟(樹之氏)ですから、ストーリーは作ろうと思えば作れるんです。
ただねぇ、あの線が僕には描けないんですよ、あの線がねぇ……。僕が描いたら、あきおの世界を壊してしまう感じがするの。ほかの『チャンプ』になってしまう。それが怖くて二の足踏んでいるうちに、時機を逸してしまって……。まだ、どっかで引っかかっているんですけどね……。 ふたりのマンガ家が最後にかわした言葉は…あきおと交わした最後の言葉は、覚えていないんです……。
僕の仕事場は自宅の屋根裏にあるんだけど、あきおは、その一つおいた隣の部屋へ仕事をしに来ていたんです、通勤するみたいに。あきおの家はすぐ近くで、そこにも仕事場はあるんだけど、やっぱり兄貴が隣でカリカリ仕事していると、自分もやんなくっちゃという気持ちになるんで部屋を貸してくれっていわれてね。その部屋に机を置いて、ずっといたんですよ。昼は一緒にご飯を食べて、夕刻になると帰っていくわけです。だからいつも、帰り際に僕の部屋を覗くんですよね。
「じゃあなぁ、帰るよぉ」
「おう」
なんていってね。最後もそんな会話だったと思いますよ。毎日そういうことやってたわけですから。文/秋山 新