野球がある!少年がいる 『キャプテン』に寄せて――
作詞家 阿久悠
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僕らの年代の人間(戦争が終わったとき、小学生だった年齢)にとって、野球というものは競技ではなく、宗教だったのです。
もしあの時、野球というものが存在しなかったら、ぼくらは心のよりどころを見失い、どんなふうな成長の仕方をしていただろうかと、空おそろしくなる時があります。
今、ぼくは、戦後の少年たちと野球との関係について、さまざまな方向から研究したいと、資料を集めています。それというのも、どういうきっかけで野球をはじめ、誰から教えられ、何に魅かれてあのように夢中になっていたのか、かんじんのところが何ひとつ思い出せないからです。
とにかく不思議なことに、日本中の少年が、1,2,3の掛け声で同時に野球を覚え、その信者になったことだけは確実なのです。ぼくは、戦後の野球を研究することが、戦後の日本の少年を研究することになると信じて、大きなテーマにしたいと思っています。
さて、それほどに関心を持っていた野球が、ここ何年かすっかり堕落してしまい、ぼくは怒り、嘆き、悲しんでいたのです。たんなる見せ物で満足している姿にたまらなくなっていたのです。
何といったら、わかってもらえるでしょうか。むずかしくなりますが、野球が会話をしなくなったということです。
その嘆きや悲しみや怒りが、『キャプテン』を見た時、スッと晴れたのです。それは夢の中で遠い昔の一番にい風景だけに色がついているような、そんな感じで受けとめたのです。
あっ野球がある。あっ少年がいる、そんな感動です。
近頃、″友情″ということに大きな関心が寄せられているようです。しかし、″友情″ということばで、理解しないようにしてください。
この『キャプテン』はそれを語っているように思います。永遠の野球少年として、ちばあきおさんに、そして『キャプテン』に、大拍手を送りたいのです。