キャプテン
文庫版

キャプテン 1 解説

酒見賢一

文庫版『キャプテン』第1巻  故ちばあきおの『キャプテン』と『プレイボール』は私のマンガ体験の中でももっとも強烈で印象的なもののひとつである。
 例えば、まだ今ほど巨大化していなかった「少年ジャンプ」を読むようになった動機である。私の場合は『キャプテン』がきっかけであった。それまで「小学×年生」しか読んでいなかったものが、どういういきさつだったか忘れたが、「少年ジャンプ」を買いに行って、間違えて別冊か増刊だったか月刊系の「少年ジャンプ」を買ってきてしまった。その「少年ジャンプ」が『キャプテン』特集の増刊号であった。キャプテン谷口が率いる墨谷二中と青葉学院の最初の対戦がまとめて掲載されていた。青葉の部長が十四人以上使ってごり押しに勝った後味の悪い試合である。
 これに感動したのが契機となり、既刊の『キャプテン』の単行本を読み、ついで「週間少年ジャンプ」を買って読むようになったわけである。「週間〜」には『キャプテン』はもちろん載っていなかったのだが、高校生の谷口くんが主人公の『プレイボール』の連載が始まっていたから問題はなかった。要するにちばあきおが私の「少年ジャンプ」入門であり、週間少年誌マンガ入門であったわけである。
 小学生の頃である。よってちばあきおにはおおいに影響を受けている。野球少年にこそならなかったが、野球はちばマンガに教わったようなものである。
(ちなみに私の中では『キャプテン』と『プレイボール』はほとんど同一の作品となっていて、たいていクロスし、関連して語っているのでご了承を)

 『キャプテン』(及び『プレイボール』)を一言で言うならば、
 「″努力″というものを描き切った傑作である」
 とまずは言っておきたい。
 「友情、努力、勝利」という有名な「少年ジャンプ」のスローガンがあるが、『キャプテン』の場合はことに努力である。努力偏重であり、極端な努力の果てに結果として勝利は付いてくる。友情においても、人間関係はチームワークという言葉の方に収斂されていて、情という部分は希薄に感じられる。『キャプテン』は徹頭徹尾それなのだ。
 たとえばこの作品にはスーパースターも天才児も出てこない。ただひたすら努力する野球部員が淡々と描かれるだけである。これほど練習ばかりしているマンガは他には見当たらない。今時のスポーツマンガだと必ず登場する″可愛い女の子″やそれに関連する色恋沙汰も皆無であり(これは時代性もあろうが)余計なことはまったく描かれていない。
 こう書くと、なんだか味気ないマンガだな、と思われてしまいそうだが、読めばお分かりになろう、『キャプテン』は非常に面白くてエキサイティングな作品である。練習と試合を繰り返す野球部員の描写も、決してロボット的にはなっていず、各々の個性が見事に浮き彫りになっている。地味で淡々としているが、それ故にこそと言いたいくらい面白い。ここにちばあきおの非凡な手腕を見るのである。こんな作家は今はいない。
 努力という言葉はなかなか抽象的でつかみどころのない言葉である。根性とかガッツとか、当世あまりファッショナブルではない精神主義と同質に語られることが多く、悪しきものというイメージも作られている。その努力という抽象的なものをちばあきおは『キャプテン』で具体的に描いて見せてくれる。単なる精神主義ではない努力とでも言うべきか、これ以前のマンガにはなかった意味を含んだ努力である。三代目キャプテンのイガラシなどはどちらかというと天才肌のキャラクターではある。しかしその練習量も半端なものではない。キャプテンたちは誰も彼も努力することにまったく妥協がないのである。
 強敵相手に粘り、食い下がり、最後まで勝負を捨てない意志力も、努力していればこそのものなのであって、これはいかにもマンガ的な根拠の薄い根性や精神主義とは一線を画するものだ。四代目キャプテンの近藤や青葉のエース佐野などの例外を除けば、ちばあきおは作品から意図的に天才を排したふしがある。梶原一騎や水島新司の野球マンガとは別の行き方である。
 かの故大山倍達氏は、自信まぎれもない天才であったが、天才とか才能という言葉を非常に嫌っていた。うまい人間、強い人間を見て「天才」とか「素質がちがう」などの評で簡単に片付けるのは努力を蔑にするものだ。大山倍達の若き日の稽古量は半端なものではなく、異常と言われても仕方のない努力であった。それを「天才」という一言で否定されてはたまったものではない。
 確かに人間にセンスや才能の差が存在することは否定できぬことである。普通の人間が三ヶ月かかって覚えることを、天才と呼ばれる者たちは十日でやってしまう。時には教えていないことまでものにしてしまう。だが大山倍達は言う。
「天才、惚れ惚れするような才能を持った人間は悲しいことに大成することは稀である。何でも簡単に出来てしまうから稽古に執着心が生まれてこないからだ。逆に不器用で見るからに鈍い人間が、熱心に稽古を続けて、見違えるほどに強くなり大成することの方が多い。私が思うに、もっとも重要な才能があるとすれば努力する才能であろう。どんな天才肌の者でも努力を継続する才能が欠けていては結局最後に勝利者となることは出来ないのである」
 努力の才能というものは存在する。ちばあきおのキャラクター、歴代のキャプテンたちはこれに当てはまろう。
 私にしろあまり努力家ではないし、努力の信奉者でもないが、努力しないことには何も始まらないことは承知している。何かの選手になるにも努力なくしては不可能であるし、何かに詳しくなるにも努力が必要だ。努力が楽しければそれに越したことはないのだが、趣味と本業は往々にして一致しないものだ。創造性のあるものでなくても同じである。パチンコ、競馬で本当に勝とうと思うのならやはり努力せねばならぬ。青少年を惹きつけている超能力などというものも、人より優位でありたいとか、人より楽をしたい、という動機で始めるのがほとんどであろうが、これとて常人と違った能力を身につけたいと望む以上は、日々のたゆまぬ訓練が要求されることは言うまでもない。決して楽には楽になれぬことになっているのである。私は小学生の頃、『キャプテン』から少なくともこういうことは学んだように思う。

 個人的には『キャプテン』の中で好きなキャラクターはイガラシである。谷口くんのキャプテン時に一年生であったから、一番長く画面に登場したことになる。小柄ながら投打に天才肌で、生意気でサルのような顔をしているがすべてのポジションをこなせるという万能選手である。非妥協的な性格で、他人にも自分にも厳しく、冷静沈着、勝つためにはすべてを犠牲に出来て、諦めるという言葉を知らない。かつ学業成績は常に学年十番以内をキープするというから、まるでマシンのような男である。異様な中学生といえる。イガラシのようなキャラは、他のマンガであれば普通は悪役になりやすい。しかしそんなイガラシもちばあきおのペンにかかると憎めない、目の離せない頼りになる男になってしまうので救われる。
 そして努力好きな天才であってつまりは鬼には金棒である。イガラシの作った練習スケジュールの過酷さは『キャプテン』中随一であった。また試合でも体力の限界まで突っ走ってしまう。ちばあきお独特のフリーハンドなほのぼのとした絵柄に騙されずに(?)やや深く読むと、なぜここまでやるのか、という賛嘆と不気味とが混じった疑問すら浮かび上がってくる。この男が率いるのなら必ず勝つに違いないと確信させられてしまう。イガラシの全国大会制覇は『キャプテン』を通じて一番の圧巻であった。
 野球マンガには様々なキャラクターが現れたが、その中でもイガラシの特異な凄味は群を抜いている。おそらく谷口から丸井を経て、イガラシがちばあきおの野球を完成させる役目を仰せつかったのである。四代目キャプテンの近藤はイガラシの行き過ぎを修正するために登場したような気さえする。そして一方『プレイボール』の谷口くんはそれを引き続き推進していくという流れである。
 おそらくちばあきおという人も、作品のキャラクターのように努力家で完全主義者、物事にすぐにむきになる人だっただろうと想像している。ただし努力主義や完全主義には双刃の剣のようなところがある。この性格がちばあきおの命を縮めることになったかも知れぬと思うこともあり、そうだとしたらまことに悔まれもする。
 私としては『プレイボール』の続編を読みたかった。今でもその思いは変わらない。墨高に丸井が編入し、イガラシが入学して、『キャプテン』のレギュラーが揃って、さあこれから、というところでの連載終了であった。おそらくこの年の夏は墨谷は確実に甲子園へ行ったであろう。「甲子園球場でプレイする谷口くん」言い換えれば「ちばあきおの描く甲子園」を見たかった。そう思う読者は私だけではあるまい。ちばあきおは敢えてペンをひき、時を止めたまま逝ってしまった。『プレイボール』は私にとってもっとも惜しい中断作品のひとつとなった。
 最後に『キャプテン』『プレイボール』における心理描写の卓越さを指摘しておきたい。マンガは小説に比べて心理描写が苦手だとか一部いわれているが、ちば野球マンガでは驚くほど緻密にそれがなされていて、成功している。とくに試合場面での心理描写は秀逸である。これで普通の中高校生がやっていることだというリアルさと、ある種の安心感が醸し出されることにもなった。この点でもちばあきおは第一級のものを持っていた。まったくもって惜しい作家であったのだ。


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