キャプテン

いまも童顔のままで

ちばてつや(漫画家)


 数々の傑作で漫画の黄金時代を支えた、ちばてつや・あきお兄弟。だが、『キャプテン』が大きな共感を呼んだあきお氏は、昭和五十九年九月十三日、自らの生を断った。享年四十一。

 あきおは結婚して独立した後も、アイデアに詰まると自分の仕事場を離れ、両親が住む私の家へやって来ては作品の構想を練っていました。 朝九時か十時に現れて、夕食前の六時頃まで部屋にこもりきり。帰り際に私が仕事をしている屋根裏に顔だけ覗かせて、「じゃあな」と去っていくのです。
 その前日もいつもと変わった様子は特に感じなかった。まさかあれが彼の最後の姿になるとは思いもしませんでした。いまでも仕事の途中にふと顔を上げると、あきおがひょっこりそこにいるんじゃないか。そんな気がしてなりません。
 千葉家四兄弟の三男・ は、昭和十八年に満州の奉天で生まれました。戦争が終わると、私たち一家六人はたいへんな苦労をしたものの、幸いひとりも欠けることなく、日本へ引き揚げることができました。
 東京に落ち着いた頃、両親が相次いで大病を得てしまいます。長男の私が生計を支えなければならなくなりましたが、高校二年、十七歳で漫画家としてデビューを果たし、多忙な生活が始まりました。
 あきおは工業高校電気科の夜間部に進み、昼間はおもちゃ工場で働いていました。手先が器用で、エンジニアか、ギターやバイオリンを作る楽器職人になることが当時の夢だったようです。ラジオの修理などお手のもの、機械いじりが大好きでした。
 ところが、高校に入ってしばらくすると、腎臓を悪くして、自宅療養をやむなくされます。この時期、私の仕事を手伝ったことが、あきおの将来を変えることになりました。
 最初は髪の毛や影といった部分を墨でつぶす「ベタ塗り」という簡単な作業を頼んだのですが、持ち前の器用さでなんなくこなす。そのうちに背景や登場人物の衣装まで任せられるようになりました。
 そんな才能が編集者の目にとまり、あきおは自らも漫画家への道を歩み出します。デビュー作は少女誌「なかよし」に掲載された『サブとチビ』。二十四歳のときのことでした。
 しかし、あんなに器用なあきおが、漫画を本業にした途端、不器用になってしまったのは不思議でした。なんの他愛のない一コマにもこだわり、考えに考えぬく。げっそりやつれた頬に不精ヒゲをはやし、一度描いた絵を消しては描き、また消しては描き……。
 彼が考えつづけたのは、ストーリーをいかに演出するか、ということに尽きます。映画でも小説でも同様だと思いますが、大したことのない話でも、見せ方、すなわち演出をほんの少し変えることで読者をわくわくさせたり、感動させたりすることができる。
 そんな真摯な努力があったからこそ、等身大の中高生を主人公とする、一見とても地味な野球漫画『キャプテン』『プレイボール』は読者の胸を打ち、完結から三十年も経つというのに、いまだに読み継がれているのでしょう。温かみのあるあの線は私には真似できません。後世に残るとてもいい仕事をしたと思います。
 あきおはスポーツも得意で、私が作った草野球のチームに入っていました。そのチームは活動を続けていて、いまではあきおの息子も参加しています。私はマリナーズのイチロー選手が大の贔屓ひいきなのですが、彼は「小学生のときから『キャプテン』に夢中で、何十回も読み返した」と言ってくれているそうですね。あきおが遺した息子も、偶然ながら「イチロー」という名前です。
 あきおを喪った前後のことは、正直いってあまりよく覚えていないのです。忘れようとしているのかもしれません。
 本人の当初の夢とちがう漫画界に引きずり込んでしまったという自責の念もありますが、両親はもっと辛かったことと思います。必死の思いで幼い子供たちを守り、満州から連れ帰ってきたのに、まだ四十一歳の三男に先立たれたのですから。
 あれから二十五年が経ち、両親もこの世を去りました。あきおが生きていれば、六十代後半ですか。その姿はうまく想像できませんね。私のなかのあきおは、あの頃の童顔のままです。

文藝春秋2009年8月号日本の兄弟67人より



 各界で活躍する兄弟32組のエピソード集です。24番目がちばてつや・あきお兄弟でした。
 この頁は一度作ったのですがなくなってしまったので新たに作成しました。前回は図書館に行って書いてきたのですけど、今回はネットで中古書籍を購入しました。1円でした。送料があるのでまぁまぁの値段になったのですけど、1円って…。どうやって商売しているんだろうって熟考してしまいました。(2016.5.27 Oz)
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