−苦しみを分かちあう漫画家仲間だった−
ちばてつや
あきおは、父の会社が満州の奉天(現在の中国・遼寧省瀋陽)にあったので、そこで生まれました。昭和18年1月29日でした。両親から聞く所によると、あきおが生まれた時は難産で仮死状態で生まれ、逆さにしてお尻を叩きやっと蘇生したそうです。あきおが大きくなってから「だからおまえは華奢で繊細なんだな」と兄弟でからかったものです。因みに兄弟は長男の僕、二つ下の研作、四つ下の亜喜生(本名)、六つ下の樹之の男四人兄弟です。(編集部注・研作氏はちばてつやのプロダクションのマネージャー、樹之氏は七三太朗のペンネームで漫画原作者として活躍しています)
満州時代は、中国人の子供と遊ばない風潮があり(子供心にも不思議に思ったものです)家の中で、父が会社からもらってきたヤレ紙(裁断したあまり紙)に絵をかいて遊びました。
戦争が終わって、本当に命からがら引き揚げてきて、父の母が住んでいる、千葉県の飯岡という所にひとまず落着きました。一年くらいいたでしょうか。ここでの研作、あきおについての記憶は余りありません。樹之が栄養失調になって、その記憶だけが強く残ったからかもしれません。
父の新しい就職先が決まり、東京の墨田区に越してきたのは、桜の花がほころびかけた頃だったと思います。僕たちはここで多感な少年時代を過ごしたわけです。僕もそうですが、あきおの作品にも下町を舞台にしたものが多いのは、この時期の思い出が強かったからでしょう。
この頃のあきおは、僕達兄弟が、近所の子供達と泥だらけになって遊んでいるのに、近くに住んでいる、学生さんやおじさんの家に遊びに行き、ラジオの組立やギターを教えてもらったり、小鳥の飼い方を教えてもらって自分で飼ったりして、すぐ大人の人達と仲良くなる、ちょっと変な子供といえば変な子供でした。因みに、千葉家の初めてのプレイヤーシステムはあきおが作ったものなんです。
また、あきおは妙におしゃれな所があり、その頃の子供はみんな坊主頭なのに、あきおだけ少し伸ばした髪型をしていました。それに、着るものにしても、僕達は親のいうままに出されたものを頓着なしに着ていましたが、あきおは、それは似合わない、これがいいとかいって、自分で選んで着ていました。
学校の勉強は、少なくとも僕達よりよくできました。スポーツは、後年あきおも『キャプテン』など中学野球を題材にした作品をかきましたが、大きくなってからはともかく、子供の頃は兄弟みんな、野球はやらなかったですね。それより夏などは、水泳に夢中だったように思います。兄弟みんな団体競技より、個人競技が好きだった傾向がありました。
あきおが、大きくなってからのスポーツに関していえば、野球はキャッチャーとセンターを、僕と交互に守り、打順は一、二番で、どちらかといえば地味なプレーヤーでした。この他に、ボウリング、スキー、ゴルフなどなんでも器用にこなし、基本やフォームにとてもこだわって、なんのスポーツでもまじめに練習していました。
あきおの初恋というのは、本人しかわからないことですが、女性に感心があるようにはみえなかったですね。でも、おしゃれで人なつっこくて、女性に限らずみんなからかわいがられていたようです。
絵をかくのは兄弟みんな好きでしたが、漫画は読まなかった。家に漫画の類がなかったのです。親の考えでは、漫画はおもちゃの範疇にあったようで、おもちゃは買ってもらえなくて、童話全集や世界名作集などは買ってくれました。
だからある日僕が友達の家に遊びに行き、そこで部屋いっぱいの漫画をみて、びっくりしました。僕が漫画家になったきっかけのひとつを挙げれば、この時の漫画との出会いが大きく影響したと思います。しばらくして母の知り合いの紹介で、日昭館という出版社から漫画単行本(『復讐のせむし男』)を出すことになるのですが、これが僕の漫画家生活のはじまりです。高校二年の時でした。
締切りが迫ると、母にベタ(墨の部分)ぬりを手伝ってもらっていたのですが、絵柄からはみだして、余計時間がかかったりする。ちょうどその頃、あきおが体を悪くして、学校を休んで自宅療養をしていたので、あきおに手伝ってもらったのですが、持ち前の器用さで、スラスラとベタの部分をぬりつぶしていきます。簡単な背景をかかせると、これもうまくこなします。
そんなある日、僕の担当編集者に「あきおちゃんも自分で漫画をかいてみれば…」といわれ初めて悪戦苦闘してかいたのが『サブとチビ』という少女漫画でした。
ただ、僕は決してあきおに、漫画家になることをすすめたことは一度もなかった。あきおの目には、漫画家としての僕が、どう映ったのかわかりません。一時期楽器を作る仕事をしたいといっていたこともあるのです。ひょっとすると、ひとりコツコツ漫画を創っていく姿が、楽器作りにも通じるものを感じ、僕の手伝いをするまま、漫画の世界に入っていったのかも知れません。辛い仕事にひきずり込んでしまったという思いは、今も僕の胸の中にあります。
あきおの漫画家としての苦しみは、兄であり漫画家である僕と比較されるという思いがあったでしょうし、だからこそ自分のものを創り出さなければいけないという闘いの連続であったと思います。
あきおの作品についていえば、批評がましいことはいえませんが、さわやかな感じで、登場人物はみんなどこかに、あきおの性格が反映されていて、自分の世界を創っていると思います。苦しみを分かちあう同じ漫画家仲間として、さらに大きく成長していくのを楽しみにしていたのですが、今は詮ないことです。
(「ちばあきおのすべて」より)