―小学生の頃、僕はこのマンガに感動し、そして夢中でした。―
イチロー(本名・鈴木一朗)
感動したマンガは?という質問に、イチローが間髪いれずに答えたのは、 ごくありふれた野球少年たちが主人公の不朽の名作だった。 そう、我々も好きだった、あのマンガ――考えてみれば、イチローは初めからイチローだったのではない。 今やメジャーで首位打者を争う彼も、最初は我々とさして変わらない、ひとりの野球少年だったのだ。(取材・文 石田雄太)
「小学生の頃、僕はこのマンガに感動し、そして夢中でした。」
『キャプテン』。
すでに亡くなられた漫画家、ちばあきおさんが描いた、野球マンガの名作である。 ごくありふれた野球部に所属する普通の中学生が、努力に努力を重ねて、 名門の野球部に挑むというストーリー。 墨谷二中のキャプテンを4代に渡って描く、長編マンガだ。
「僕が『キャプテン』を初めて知ったのは、小学生の時かな。 何しろ、友達に見せたら、野球部に入るって言い出したほどでしたからね。 僕はコミックスではなくて、アニメで見たんですけど、感動しましたね。 最初に見たのは、谷口キャプテンの時代でした」
野球の名門・青葉学院中で二軍の補欠だった主人公、谷口タカオは、 東京の下町にある墨谷二中への転校を機に、楽しんで野球をやりたいと野球部の門を叩いた。 しかし初練習の時、不覚にも青葉のユニフォームを着てしまったことから誤解を生んでしまい、 墨谷の全校生徒から”青葉のレギュラーでサード”という過度な期待をかけられてしまう。 口下手の谷口は真実を告げられずに思い悩むものの、猛練習を開始した。 それなら練習をして、青葉のレギュラーと同じくらい野球がうまくなればいいじゃばいか、と――。
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やがて、谷口はその努力を認められて、3年生になると同時に4番でサード、しかもキャプテンに指名された。
「キャプテンになった谷口が、チームのみんなに対して猛特訓をするシーンがあるんですよ。 でも、自分はグラウンドではみんなにノックするだけで、特訓を受けることはない。 だからナインに不満がたまって、ピッチャーの松下が、キャプテンに抗議しようぜ、と言い出すんです。 もちろんイガラシだけは、そんなことするなんてバカじゃねえの、みたいなこと言ってるんですよ。 で、谷口の家に行ってみると、谷口のお母ちゃんが出てきて、神社に行っていると言う。 みんなは、どうせ青葉学院に勝てますようにって願かけにでも行ってるんじゃないかって言うんだけど、 実は谷口は、みんなのノックに追われて自分の練習ができないからと、それよりも厳しい猛特訓を神社でやっていたんですよ。 その姿を物陰から見つけたナインが、申し訳なかったという気持ちになって一人、また一人と、走って帰る。 それをさらに物陰から見ていたイガラシが、これなんだなぁ、キャプテンがみんなを引っ張る力は……と独り言をつぶやく。 そういう見えないところの姿というのは、グランドの上で何かを示すよりもはるかに強い影響をチームに与えてくれますよね。 僕にとっても、そうかと思わせてくれる場面がたくさんあったから、このマンガに夢中になっていたんだと思います。 僕なら抗議の仲間には加わらずにイガラシのようにこっそり見に行って、でも独り言はつぶやかないで(笑)、 イガラシと同じことを思ったでしょうね」
イチローが言う『松下』というのは、墨谷二中の背番号1。 プライドは高いが投げるボールは遅く、弱小野球部の典型的な3年生エースだ。 そして『イガラシ』とは、墨谷に入ってきた新入部員で、イチローがもっとも心惹かれるキャラクターである。 体は小さく、見てくれはサルのようなイガラシは、シャープなバッティングで先輩達の度肝を抜く。 さらに内野を守らせてみたらこれが抜群で、間違いなくレギュラー級の実力を持つ。 しかし、谷口は悩んだ。 墨谷には、新入部員には中学野球のイロハを教えるために秋まではメンバーに入れないという不文律があったからだ。 しかもイガラシは思ったことを口にしてしまい、その態度が先輩の反感を買ってしまっていた。
「みんな個性があって、それぞれ面白いんですけど、自分に近いなと思うのはイガラシですね。 顔も似てるし、上級生に対する生意気なところなんていうのも、僕と同じですから(笑)。 僕も、小学校の3年生になってからじゃないと出られない試合に、小学校1年生の時から名前を変えて出ていましたからね。 名前がそのままだとバレちゃうから、上級生の名前を使って出ていましたよ、その試合に」
「昔、青葉学院みたいなチームに震え上がったことがあります」
イチローが中学生の時。 鈴木一朗というピッチャーを擁した愛知県の豊山中も、青葉のような強豪校だった。
「全国大会の、ベスト4までいきました。 小学校時代、全国大会のベスト8まで行ったチームのメンバーが、ごそっと来ていましたから。 特にセンターラインがすごく優秀だったんです。 キャッチャー、ショート、センター、まぁ、ピッチャーは僕でしたけど、このセンターラインがものすごく優秀な選手ばかりで、 最初からある程度、期待のできるチームでした。 ですから、どちらかと言えば、墨谷二中ではなくて青葉学院の方でしたね(笑)。 でも墨谷に成長していくプロセスは、青葉学院の選手が見せられても感動するはずですよ。 だった名門のチームにいる選手だって、最初からうまいわけじゃないですからね、みんな」
それでも、豊山中は、全国大会の準決勝で敗れてしまう。
「僕らにとっての青葉学院みたいな、驚くような強さのチームもありましたよ。 全国大会の最後に負けた兵庫県の中学校だったんですけど、これはスゴイチームでしたね。 僕が中学でピッチャーでをやっていた頃は、同じ中学生を相手に打たれることなんてことはほとんどなかったんですよ。 それがその兵庫の中学には、1番から9番まで全員、芯に当てられた。 それはもう、あの打線のイメージは強烈でした。 みんなに芯を食らって、打ち取ったと思っても、ライナーとか、いい当たりばかりでしたからな。 メチャクチャ驚きました。 で、ピッチャーが2年生で……そういう意味じゃ、佐野と同じですね。 佐野は左で、彼は右でしたけれど、やっぱり青葉だな、あの学校は(笑)。 それでも、結局はあの中学から甲子園に出たようなヤツはいなかったんですよ。 僕、出来る範囲の中で調べたんです。 でも誰の名前も見つけられなかった。 あの大会は彼らが優勝したんですけど、すっごいチームだった。 ホント、震え上がりましたよ(笑)」
ふと、思った、愛知県の一中学生だった鈴木一朗は、今、メジャーリーグの押しも押されもせぬスーパースター、 イチローに成長した。 そのプロセスの中で、墨谷二中の谷口がそうだったように、鈴木一朗も凄まじい努力を重ねてきたに違いない。 だからこそ『キャプテン』に思い入れているのだ、と。 『キャプテン』に夢中になっていた当時のイチローは、今と何が違い、何が変わらないままなのだろう。
「僕は中学生の時、初めて監督という存在に出会ったんですけど、 学校の監督というのは自分の形にはめたがるというイメージがあって、あの頃は何を言われても聞かなかったんです。 でも今は、まず聞く自分がいる。 しかも、それをさらに振り分ける自分もいます。 そこは全然違いますね。 同じところは……納得のいかない理由で何かを言われると、すぐに歯向かうところですかね。 相手に食ってかかるところはあの頃と変わっていない……何せ、イガラシですからね(苦笑)」
(プレイボーイ 第37巻 第34号 2002/9/17 集英社発行)